池袋西武の書店、リブロには絵本コーナーがある。
その前のスペースで今日は、紙芝居が行われていた。
前のじゅうたんには、子どもたちが
座り込んで無我夢中になっている。
その珍しい光景に、通り過ぎる大人は皆
足を止めて、食い入るように見ていた。
途中、みんなに配られた新聞の切抜きには
こんな風なことが書かれていた。
絵本の読み聞かせと違って、紙芝居って
全然メルヘンじゃなかったらしい。
禍々しい悪役像、陰惨ないじめや
流血場面に満ちた紙芝居は、確かに
教育者の童心主義と対立したであろう。
こうした「俗悪文化」の悪影響から子どもを
守るため、1949年以降各地で紙芝居業者
条約が制定されていく。
そして、社会から「害」として排除されていったそうだ。
しかし、「子どもたちは「下積みの大人」から人生の苦労と喜びを
肌身で感じて成長したはずである」。
ふと、今読んでいる本『脳と日本人』(松岡正剛と茂木健一郎の対談本)
の一節を思い出した。
松岡氏がまず、いじめられる者が自殺に追い込まれることを例に挙げ、
今の日本の社会的逸脱者を絶対に許さない、という
アノマリー(異質の例外性)を排除してしまう傾向にあることを指摘し、
それを受けて茂木氏が、現代人は「足腰が弱い」「堪え性がない」と
表現する。
自分が異質に感じるものを排除する傾向は、
そうした人間関係にのみ現れるものではなく、
実は、道具にもあると。
鉛筆を削る
ガスコンロをマッチでつける
筆を使う
カメラのピントと露出を合わせる
こうした行為が、
道具の進化によって必要なくなっている事態は、
例えば「携帯電話と自分の手の指の相互作用の軌跡には、
ほんとうは無限の可能性がある」はずなのに、
その可能性をみすみす潰しているということになる。
不便であるということは、
目的遂行に対して非効率であるけれども、
いわゆる人間の無限のアフォーダンス(行為の可能性)
を無限に広げる可能性があるということである。
理想を「善」とすると、それを阻むものが「悪」となり、
目的を「善」とすると、不便が「悪」となる。
こうした二項対立した概念に拠って立つと、
たちどころに「悪」は排除される。
これが、現代人の足腰を弱める原因となる。
子どもの教育ばかりでない。
大人もまた人として生まれ、
その固有の可能性を、
「異質性」を排除することによって狭めていないだろうか。
日々の生活の中にわずかにでも
ハードルを設けてみること。
私たちの「知覚に急角度で切り込んでくる」という、
私たちの「クオリアやアフォーダンスの体験」に
対応できる感覚を持つために、
身体感覚を冴え渡らせる努力をしてみよう。