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2007年12月 アーカイブ

2007年12月09日

体験こそ直視

今日も、AKIRAのNew 天の邪鬼日記から。

きれいごとで愛とか語ってるひまがあったら、旅をして世界がくぐりぬけた痛みを直視することだ。 経験もせずに頭やモラルで批判することだけはしたくない。

2年前、アメリカに行ったこともないのに、
ブッシュアメリカ批判をして当時の知り合いに怒られて、
アメリカに連れて行ってもらった経験があります。

「行ったこともないのに、批判するな」

実際に行って考え方が変わったかと言うと
そういうわけでもなかったのですが、
ただ一部分の情報のみを見聞きして、
それを大きな範囲まで一括りにして色をつけて
批判するべきではないということに気がついたという
前進はありました。

「世界がくぐりぬけた痛みを直視する」

歴史を学ぶこととと同じくらい大切ですね。

新聞記事の悲惨なニュースや、
海外の貧困の情報などを読むだけで、
貧血を起こしそうになってしまう私が、
実際にその痛みを直視したら、
一体何を感じてどんな反応を起こすのか、
少々怖い気もしますが楽しみでもあります。

知るべきなのに知らない現実をまず、
この足を使って見に行かなきゃ。

ありがとうの種がいっぱい

高校生の時の私は、
部活動や恋に明け暮れて、
帰宅しても琴を練習したりテレビを見たり、
好きな人のことを考えたりして忙しかったので、
家のことは何もしなかったように思います。

ところがある時、
母にお願いされて、洗濯物を干しました。

すると、母が、
「ありがとう。助かったわぁ」
と言いました。

その時にハッとしたのを覚えています。
「ありがとう」を言うべきなのは、私の方では?

当たり前に洗濯物が洗われて、
当たり前にきれいになってタンスに入れられている。

父が脱ぎ捨てた靴下も、パンツも、
次の日にはきれいに片付けられている。

こうした当たり前の背景には、
実は母の苦労があったのかと、
その母の一言とそのお手伝いをする中で
気がつくことができたのでした。

母は一体、どれほど洗濯機を回して、
食器を洗って掃除機をかけてきたのだろう。
そのたった一回を、一部だけを手伝っただけなのに
「ありがとう」と言ってくれた母に、
ただただ申し訳なく、「こちらこそありがとう」と言いながら、
少しずつお手伝いをすることを決めたのを覚えています。

最近は家族によく関わる機会が増えてきて、
そんなことを思い出しました。

私達が当たり前にしていることの中に、
実は誰かの苦労が隠れている。
ありがとうの種がいっぱい落ちているのかも。

それを発見できると、日々の幸せが倍になります。
私がそうだったから。
皆さんもぜひ、その種を発見してみてください。

2007年12月14日

プラトニック・エロス

私のメンターである友人の一人と、
昨晩は夜遅くまでやりとりをした。

やりとりの対象は言葉なので、
一般的には「会話する」や「話をする」と表現する。

けれども彼とのそれは、そうした言葉感覚とは明らかに異なる。
「語る」という、やや静謐で深遠な響きとも異なる。

会話後の身体感覚が、激しい運動をした後のそれに近いのだ。
超高速で脳が回転し、そのままどこかへ突き抜けていきそうな興奮状態。

昇天也。

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六本木でカフェ飯を頂きながら、
メディアやコミュニケーション、パワーバランス、
「言葉」の壁、魂、時の流れ、有限性、過去の美化、時間軸と空間など、
まるでプロ卓球選手のラリーのようなスピードで
互いが互いの言葉に反応していく。

「知識が蓄積されているという状態よりも、
その多さ故に、より多く運動が生じることが楽しい」

と彼は言った。まさにその運動が目の前で生じていたのだ。

同じ26歳だが、既に4000冊以上読破している彼は、
常に螺旋階段の20階くらい上を、
ものすごいスピードをもって駆け上がっている。

大体において一言目は何を言っているかわからないのだが、
知りたいから、食いつく。わかるまで。

「それは、つまりどういうことなの?」

様々なメタファーを用いて、
20階下にいる私にロープを投げかけてくれるので、
私は、イマジネーションというありがたい人固有の能力を駆使して
彼には見えている概念世界を覗き見ようと必死になるのだ。
(途中、彼が私にくれた「知性」という言葉のプレゼントがまた・・・落)

彼も彼で、私の問いに応えようと様々に反応する。

すなわちコミュニケーションとは、
互いが互いの理解に近づこうと、言葉を媒体に、
相手の見える世界を手繰り寄せようとする、
きわめて身体的な営みなのかもしれない。

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相手を知りたいという原動力を元に、
反応が反応を生み、近づいていく二者間のやりとり。
1対1でしかありえないスピードとリズム。
会話後の「快楽」に近い身体感覚。余韻。

エロい。エロすぎる。

妙に紅い頬をして興奮したまま帰宅した私を見て母は、
「あんた、今日はきれいじゃない」。

プラトニック・エロ効果。

2007年12月16日

0.007%の大切さを伝えるひと

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エコプロダクトの住生活グループでのワークショップ。

子どもたちを集めて、
メスシリンダーいっぱいに入れた水を地球全体の水に喩え、
そのうちの97.5%は海水だから、とバケツに捨てさせて、
その残りの約2.5%は氷河や地下水などだから、と
更に捨てさせて、

残ったスポイト一滴の水を見せながら、

「0.007%、これが私達が使える水なんです」と語るWaterscape代表、野田岳仁氏
(写真がひどいですが、右あたりのピンクのカーディガンの人)

伝えたいことがいっぱいつまったワークショップ。

「これをお友達に伝えてください。一人が一人に毎日伝えれば、
日本中の人に、28日で伝わるんです。」

子どもたちの真剣なまなざしを見て、胸が熱くなる。

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野田さんとは、友人に誘われていった以下のイベントで知り合う。

21_21 DESIGN SIGHT EXHIBITION 2 "water" × ABCコラボレーション企画
トークイベント「水に学ぶ」
野田岳仁(NPO「Waterscape」代表)×佐藤卓トークショー
「水を通して世界を見る。」

野田さんは、友人が大学時代に活動していた
国際青年環境NGO 「SAGE」のメンバー。

というよりも、そのNGOの設立者であった。

プロフィールを見れば一目瞭然であるが、
活動のパワフルさには舌を巻いてしまう。

「ゲームもありましたよ。でも川で遊んだりスポーツするほうが好きでした」と。

アジア代表として「水」の国際会議に出て、
他国の灌漑大臣に「宣言」を「約束」させるべく言い迫ったというエピソードなど、
年齢を感じさせない物怖じさとまっすぐさに口が開きっぱなしである。

その後、その大臣は怒って会場を去り、
その場にいた聴衆からブーイングの嵐を浴びたという。

「その演出もまた、面白かったですね~」

と穏やかに笑った。

他にも水のイベントや国際会議、現地調査やワークショップなどを
すべて一人で進めている。

その思いの根源は、大好きな水をきれいにしたい、
という「水、大好きだから」という思い一つ。
「世のため人のため」ではないのだという。

それから、次々に様々な構想を実現するのは、
ラグビーで学んだ「タックル精神」とも。

あれこれ考えるばかりで何もしていない私に、
同い年の彼に、喝を入れていただいたような心持である。

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Waterscape オフィシャルページ
http://www.waterscape.or.jp/top.html

2007年12月23日

AKY(あえて空気読まない)を出発点に

大好きな雑誌『ダカーポ』。

小さくて軽くて、朝の通勤ラッシュでも
うまくやれば上手に読めたのに、
この620号をもって休刊。さみしいんだよ、私は。

さて今日は、その中の「嘘と真のこのくにのメルヒェン」から。
ドイツ文学翻訳家である池田香代子さんが歯切れよく、
KY(空気よめない)という言葉を生み出してしまう
今の世相を斬ります。

面白かったので、引用しちゃう。

でも、言わせて頂けば、それはたんに空気に呑まれやすい ということではないだろうか。つまり、ヘタレだということであって、 自慢することでもなんでもない。むしろ恥ずべきことだ。 付和雷同する輩が、「あの人KYよね」とか言って、 同調圧力に耐性のある人間を排除するのだ。

・・・それにだいいち、受けるというのは現象であり、
人間関係の深まりを担保するものでもなんでもない。
なのに、そんな薄っぺらいやり取りを人間関係や社会性と
取り違えている向きがあまりに多い。

本当に欲しいのはコミュニケーション能力だ。
これは、空気を読むこととは違う。

同質のものをかぎ分けて、
相手と重複すると想定した狭い了解の領域に自分を収めこむ
ふりをするのが、KYにならないための心得だろう。

それにたいし、まずは異質なのはどこかを見定めて、
そのうえで意思疎通の可能性を信じ、すぐに結果を
得ようなどとあせることなく努力していくのが、
コミュニケーション能力だ。

意見の違う人をどれだけ受け入れているかが、その集団の成熟度だ。

KYという狭き価値観のまかり通る空気の中で、
AKY(あえて空気よまない)をやってのける姿勢が、
人が人を理解して、より広く多様な視点を獲得しうる、
一つの出発点ということになる。

会社など、フォーマルな場であればあるほど、
KYを厭う悲しき関係に陥りがちなのだが、
ここのところのデジパは少し様子が違う。

心の底に秘めていた思いがぶつかりあって、
上昇する凄いエネルギーとなって、
社内を駆け巡っている。

真のコミュニケーションの出発点に、
一人ひとりが立ち始めた。そんな感じ。

人と人の関係について、一つ。

前回のポストに引き続き、「関係性」について思うことを一つ。

以前書いた、mixi日記を引用。
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今日は、大学時代の友人とお茶した。

偶々、今朝メールをくれて、
偶々、私がお休みで。

私の個人的な用事が済んだ後に
一緒にお茶をしたのだけれど、
時間があっというまに過ぎてしまった。

まさか2年以上会っていなかったなんて、
1ミリも感じられなかった。

人は、様々なシーンで「知り合い」を
増やしていくけれども、その中でも、
関係を長く続けられる人は限られる。

彼女は大学時代のディベートのパートナーだった。
だから当時、彼女と私には「ディベート」なるモノが
介在していた。つまり、ディベートという共通話題が
私と彼女をつないでいた。

でも今、二人ともディベートに特に関係していない。
(私はチーフだったので一寸噛んでますが)
だけど、こんなに楽しいのは、ずっと続く関係なんだろうと思う。

こういった関係性をつくるには、
共通の話題という媒体があるときに、
いかに「相手の本質」とぶつかりあえるか、
ということなんだろう。
(彼女とは、体裁なんて関係なしに、
本音だけでぶつかり合ったのでした)

袖振り合うも他生の縁

今ある関係をいかに大切に残せるか。
まさにこれは私の付き合い方一つかと、
当たり前のことを改めて。

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相手の本音を知りたいと渇望するそれぞれの想いが、
先日の「クレドミーティング」で見えてきた。

私自身もまた、
KYを恐れるばかりに「言葉を選びすぎ」ていた
ということに、フィードバックにより気付かされ、
少しずつ、「枠を超える」「殻を破る」に向かうための、
自分なりの方法を模索しつつある。
出来てないかもしれない。
しかし、意識はするようになっている。

はかなき命が費やされる大部分の時間を共有する、
奇跡的とも運命的出会いともいえる「同じ会社の人たち」。

会社という社会的関係性を外してみたとき、
いかなる深浅の線を、他者に対して結べる自分であるだろうか。

そう、自問し続けること。

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