2008年05月07日

ちがうのは、度合いだけ。

結局のところ、全部全部、本当はみんな一緒で、
ちがうのは度合いだけなんじゃないの、と思う。

やさしさもずるさも
悪い心もいい心も
知ってるのも知らないのも
賢いのもアホなのも
楽なのも悲しいのも
残酷なのも慈悲深いのも

みんな同じ要素を
同じように持っていて、
でもご先祖の歴史とか、育った環境とか
性格とかきっかけとか努力とかによって、
その度合いがアメーバーみたいにうにゃうにゃ変化していって

何かが突出して目立つと、
この人は、「優しい人」「ずるい人」みたいな印象を
他人に与えるのだと思う。

だから、「まさか人を殺すような人ではなかったのに・・・」
というご近所や元同級生からの発言はよくわかる。
どんなに「まじめな人」でも「残酷さ」の要素を持っていないとはいえないから。

そう考えると、あっという間にそっち側にいけそうな気がしてくる。
私とは全然違う人だと思っていた人が、実はすぐ隣の人だったりするかもしれない。
この人のことはまったく理解できない、と切り捨てることがなくなるような気がする。

私がもし、その環境で生きてきたら、どう感じるんだろう。どう生きるんだろう。
私が生きて育ててきた私の価値観だけで人の悲しみや苦しみを量らないこと。

時々、それを考えすぎて、変に混乱することがあるけれど、
まずは人の気持ちになってみるのが大切なんだろうと思ってます。

私はその人ではないので完全にはできないけど、とにかくイメージしてみるの。
拒絶したくなるような敵対している思想でも、人でも、なんでも。

そうやってがんばって「慮っていく」ところに、
家庭でも地域でも社会でも世界でも、
とにかく「仲良しの根っこ」があるような気がするから。

参考:映画『クラッシュ』
あたしのレビューはこちら

2008年05月06日

営業マンで決める。

会社でも個人でもお買い物をするとき、
より良いものを、より安く手に入れようとする。

商品あるいはサービスが自分のニーズに
合っていることを前提に、いくつかの購入先を並べたとき、
最終決断は何で決めるのか。

まず上司に聞いてみた。

1. 値段
2. 営業マン

「えっ?営業マンですか?」

「そ!コミュニケーションと、スピード。」

なるほど確かにいろいろな人に会ってみると
よーく頷けた。

こちらのニーズがあまりよくわからないまま、
ピントのずれた提案をする人。

長いことあれこれ話すけれど、
たぶんまとめると、5秒くらいで言えちゃうような
内容の話しをする人。

商品が多すぎて、商品内容を把握し切れていない人。

自社の商品のことしか説明できない人。

一方で、こちらのニーズをよくわかって
すばやくぴったりな提案(+α)をくれる人もいますが、
とても少ないのです、意外なことに。

カシオ電機に就職したディベートの先輩が、
「営業はcomparison(比較)だよ」
って言っていたのを思い出しました。

消費者は選ぶのに悩んでいるので、
比較までしてもらえるとうれしい。

この商品のいいとこわるいとこ
あの商品のいいとこわるいとこ

どれもいいとこわるいとこあるけれど、
あなたのニーズからすると、うちの
この商品がいいんじゃないでしょうか??

みたいな感じでしょうかね。

先日、携帯を変えてみました。
どこの家電量販店でも携帯ショップでも同じもの売ってるんですが、
結局最も説明が上手で比較が上手で、
無駄がなくて速くて、私のニーズをすっかり汲み取って提案してくれた
清潔感のある営業マンのところまでわざわざ戻って購入しました。

商品が同じだとしたら、
たぶん、営業マンで決めるんだと思います。

がんばれ世の営業マン!
シビアに「人」で選別されています。
(私のほうが年下であることが多いから、
とんでもなくおこがましいこと言ってるの、承知してます。
でも、こっちもお金かかっているので何卒お許しを・・・)

なんだかうまくいかない人は、
恋をまじめにやってみるのが、
ひとつのヒントになりそうな気がするんだけど。

Do you know what the girls want?

2008年04月27日

結婚式2次会@お寺

楽しみにしていた、友人の結婚式2次会。

期待を裏切ることなく、
今までのどの2次会よりも面白かったのです!

■コンセプト

多士済々(たしせいせい)

意味:優れた人が多い様子。
   出典は『詩経』。類義語は人才済済。

それぞれの芸、才、企画、ネタをもちよって
なにかが生まれるきっかけにこの場がなれば
という願いをこめてます。

なんと、新郎新婦自ら司会を務めるという変わった形式で
参加者がネタを次々披露。

・愛のご提案(愛を冷まさせないトーキョーイベント・スポットの紹介)
・世界旅行の写真(北朝鮮、東ティモールなど、本人曰く「僻地」中心に)
・インドの結婚式の紹介(その方の友人が、インド人のところに嫁いだそうです)
・世界一周の写真(息を呑む美しき地球の一瞬一瞬を)
・シャンソン(フランスが生んだ愛の歌)
・愛の歌特集(ミックスCD)
・新郎の紹介(拡大するとすべて本で構成される新郎の写真、目には新婦の写真が)
・参加者みんなでモバイルサイトにアクセス、新郎新婦への質問に
アンケート形式で答える→オンタイムで参加者の回答が画面に反映される。
(ここかしこから、「このシステムください!」の声が)
・愛のオリジナル絵本(おくさんが読んで、だんなさんがギターで)
・これから子供を生む二人へメッセージ(どうか、子供を愛して下さい。)
・新郎新婦へ家紋のプレゼント
・愛を伝える目ヂカラセミナー
・新郎新婦への質問集(村上春樹より『ハーバード・ビジネスレビュー』の方が面白い?)
・「ジェンダーバランスを」(「男しかいないから女の子呼ぼうよ」でいいじゃんという話)
・新郎新婦との関係から日本書紀、蘇我氏など歴史そのものへの情熱について
・結婚生活を円満にする朝の過ごし方(おはよう、極上朝ごはん、くつみがき)
・新婦(チェロ)のカルテット(高尚な趣味ということ)

ところどころ休憩を挟んでいただくご飯がこれまた極上。
その道のプロが小さな台所で腕を振るってくれました。

最後は、和尚さんのご説法。
わいわいガヤガヤしていた会場をみんなで
サササとお方付けして、並んで正座して。

教育者のご両親の元で育ったが
教育では人は救われないのだと思い、12歳で出家の道へ。
「いまどき坊さんでも普通は大学出とる」といわれ
一時期へこたれそうになるが、知恵と知識が違うこと、
知恵があれば人の心を変え、社会を変えられた先人を知り、
めげずにがんばったこと。

今、日本ではお坊さん=葬式のイメージで限定されているが、
お経はそもそもお釈迦様が生きている人と如何に生きるかを
書いた対話集であって、だから一昔前までは、
人々が悩み事を相談しに来る場所であったと。
つまり、生活に根付いているものである、と。

だから開かれたお寺にしたいと和尚さんはがんばっている。

オウム真理教の幹部の死刑執行囚に説法をしている和尚さんは、
最後に、「では私も一芸を」と言ってなんと、披露してくださったのです。

空中浮遊を!

すごい!!!

大盛り上がりのうちに終わった2次会。
出口には50冊の文庫本が。

ブックコンサルティングをしている新郎が明け方までかかって
参加者一人ひとりに合う本をチョイスして、コメントをつけてプレゼントしてくれた。

私への本は『行動することが生きることである』(著:宇野千代)。
「宇野千代張りの女になってください」

胸が熱くなりました。
素敵過ぎて、興奮しました。泣けました。
ずっとずっと宝物です。

こんな素敵な友人を持てて、本当に幸せ者だなと
心から思いました。最高の時間をありがとう!!

それから和尚さんが書いた本もサインつきで頂きましたv

パレスチナ1948・NAKBA

映画『パレスチナ1948・NAKBA』


観にいってきました。

中学高校と習ってきた歴史の授業からは、どうも、
「かわいそうなユダヤ人」という印象がぬぐえなかった
中東あたりの問題。

問題が複雑なのに何ひとつ調べもせずに
ぼんやりとした知識だけをもって、
映画を観にいきました。

映画が始まるとすぐに私は、
誰が被害者で、誰が加害者なのかを見極めようとしていました。
けれども、色々な人にインタビューを進めて行くこの映画では、
どの人種も加害者であり、被害者として映っていたのです。

私が歴史で習っていた迫害を受け続けた「かわいそうなユダヤ人」たちは、
なんとも惨い方法によってパレスチナ人を虐殺していました。

生き残ったパレスチナ女性は涙を流しながら、
男性は憤りをこらえながら、
当時の様子を胸を痛めて語ってくれました。

私の娘は、妊娠していました。
おなかが切り裂かれていました。

私の息子は、首を切られていました。
近所の人も殺されていました。

金曜から、2日間ずっと、街中で殺戮が続いていました。

男性は呼び出され、壁の前にならばされて
家族の前で次々に頭を打ちぬかれるのです。

大きな穴に、死体を入れていく作業をさせられました。
まだ、動いている人も入れました。

途中で死体の数を数えるのをやめました。

(私の基礎知識不足によって、上記の証言が誰のものか、
もしかすると正確ではないかもしれません。)

先祖が代々守ってきた、平和に暮らしていた土地が
突如破壊されるとは、どういうことか。
大切な人が殺されていくとは、何事か。

大切なものを奪われた人の話を聞きながら、
映像だからこそ伝わる語り手の感情をもろに受けて絶望して涙して、
もうなんだか頭の中がぐるぐるとして意識が遠のきそうになるのを堪えているところに、
この問題に取り組むグループの講演が映りました。

「私たちはユダヤ人を擁護しているのでも、
アラブ人を擁護しているのでもない。
迫害を受ける被害者を支援しているのだ。」

との言葉(これまた正確ではありません)に
ハッとしました。

すべては、自民族のエゴから始まっている、と。

とはいえ、島国で悠々と暮らしてきた日本人が、
「それは、エゴがいけないんだよ」といったところで
主張として弱い感じがしますね。
だって、排他的な愛国心を剥き出しにしなければならないほどの
差し迫った状況に、すくなくとも私が生きているうちはなかったのだから、
その人たちの気持ちをちゃんと理解できていないのだから。
それに宗教とも絡むからコトが複雑すぎる。(あまりに安直な表現だけど)

でも武力では何も解決しないということだけは
ずっとずっと、数え切れないほどの犠牲者を出しながらも
いまだに絶えない紛争をみて、言えることだと思いました。

人を殺めるための武器なんか全部、木の苗と花の種に換えてしまえばいいのに!

なんだか・・・知識が浅いばっかりに、
小学生みたいな感想文になってしまいました。

ともあれ、学校で習ってきた歴史では知りえなかった事実を知り、
ますます、世界が経験してきた痛みを、この目で確かめてみたいと
強く思うようになってきました。

映像ドキュメンタリーって偉大。
-----

人が自らのアイデンティティを、国家という
人が考えた枠組みに求めるのはなぜなのだろう。

mixiに、「所属:地球」と書いている知り合いを見て、
そんな問いをふと、思いだすのでした。

2008年04月21日

あたりまえに潜む

大学時代のディベート三昧の日々に脳が疲れてか、
大学院に入ると一気に感覚的なことに価値を置くようになりました。

However,
1. No reason why they argue that ・・・
2. Extend A)2nd argument indicating that・・・
3. Even though their analysis is true, we can outweigh・・

大学時代、ディベートに脳が侵されていた当時、
日常生活においてさえ、理由の無い主張は
右から左へ聞き流していて、ほとんど聞いていなかった。
まして、感情論なんて「無」に等しかった。

「○○するとさみしいじゃんって、何よそれ。
ちっともインパクト(弊害)ないじゃん。」と言う感じに。

当時は、そう考えられない人の非効率性に驚愕していたが、
今となっては当時の自分に驚愕している。お前は人間か、と。

そういう狭く極端な世界から身をひいたら、
今度は理由の無いことの爽快感にすっかりやられてしまって、
大学院の頃の一番好きなCMが、コカ・コーラの「No Reason」だった。

理由なんて無いんだ!
ただ、体が求めてるんだから、である。

そして一気に夢の中へ。
音楽と自然と絵本の世界へ没入。

彫刻したり、銀粘土でアクセサリーを作ったりする彼氏と一緒に
私はひたすら絵本を読み漁って、美術館をめぐって、
二人で自然の中を散策して、浮世離れして、浮き足立っていた。

大学院の仲間とは、「かたくりこ」という(あやしい?!)グループをつくって
小説を作ったり、日々の当たり前に潜む美しさを報告し合ったりして
これもまた夢の中であった。
(これだから社会に出るまでの論文執筆と就職活動が大変な騒ぎでした)

その「かたくりこ」のテーマは、
「日々の当たり前に潜む美しさに気づく」こと。

もし明日、世界の終わりだと告げられたら、あなたは何をしますか。

私の大好きな先輩はこういった。

「いつもどおり過ごす。朝起きて、カーテンを開けて、朝日を浴びて背伸びをして、
洗面所にいって、冷たい水でパシャパシャと顔を洗って、髪をキュッと結ぶ。」

一つ一つが美しくイメージされた。
きっと先輩はその一つ一つを愛おしく思いながら生きているんだなって思って
それを聞いてから私も生活の中の一つ一つの所作が、嬉しいものになった。

洗濯機が回っているのを見るのが好きだ。
自分の心もバシャバシャ洗われていくようだから。
そんな感じのことがたくさん。

人それぞれ感じ方はあるけれど、
実は日常には当たり前にしすぎて気が付かない、
「生きている」を実感させる美しくてうれしい様々のことが
たくさん落ちている。

そういえば、そういうアンテナが最近は少し鈍っていたなと、
八重桜が散っていくのを見ながら思ったのでした。

馬鹿にしない

他人を馬鹿にする行為の、なんともアホらしいこと。

自分が知っていることを相手が知らない時、
そんなことも知らないのかと馬鹿にしないこと。

自分がそれを知っている間に、
相手は別のことを学んでいるだけだ。

学んでなかったとしても、感じて経験して積んでいる。

「おまえらの知識なんて、校庭の蟻んこくらいだ」
と中学の頃の塾の先生は言ったけれど、
実際は地球の、宇宙から見た蟻んこかもしれない。

つまりすべての人は、知るべき事柄の、ほんの一部を知っているだけ。
相手は、たまたま私が知っていることについて知らなかっただけ。
私も、相手の知っていることについて知らないことがあるはずなのだ。

しかも、相手の「知らない」は、それについて私が説明したその瞬間に、
「知る」に変わる。つまり、あまりにも瞬時に、イーブンになる。

もちろん経験が相伴うことによって
表層的な「知る」が「解る」になって行けばいくほど、
知識として脳に残り、体験として体に残っていくわけだけれど、
ただ「知っている」かそうでないかという土俵での戦いは、
あまりにも稚拙すぎると思う。

知らないなら、知ればいい。
「知らない」から「知る」への壁は、
ただ「知ろうとする」という意気込みだけで
いとも簡単に超えられる。

しかもその意気込みはまったく、
個々人の価値観に因る。
別に興味ないから知りたくもない、だってありなのだから。

そう考えると、「そんなことも知らないのか」と思うこと自体が
なんともアホらしく思えてくるのだ。

相手にとっては別に知りたくもないことで、
知ろうと思えばすぐに知れるという
あまりにも薄い壁一枚を隔てているだけなのに、
一方で勝手に優越感に浸っているだけなのだから。

2008年04月14日

心が開いているとき

村上春樹の『ノルウェイの森』を、「ただのエロ小説じゃねえか」という人。

映画『タイタニック』を、「船が折れて、沈没する話だよ」と説明する人。

絵本『バスに乗って』を「バスが通り過ぎちゃうだけじゃない」という人。

こういう人たちが確かにいる。
いるのはわかっていても、
実際に出会うとびっくりしすぎて声が出ない。

それが悪いとかはちっとも思わないけれど
ただただ、びっくりするのだ。

同じものを見ているはずなのに、
一体この感じ方の違いは何なのか、と。

でも人に限らず、自分自身でも、何もかも美しく見えるときと、そうでないときがある。
音楽を聴いていても、どんな曲でも楽しく聞けるときと、そうでないときがある。

これって簡単に言うと、心に余裕があるときとないときなのかなぁ。
そういうわけでもないような気がする。

ただ、美しく見えたり楽しく聞こえたりするとき、
総じて心は穏やかで幸せがあふれているときなのだ。
でも、その答えでは、いまひとつピンと来ない。

いまだに自分自身で答えが出ないから
自分なりの答えを持つ人に聞いてみたい。

そういう経験ありませんか?
なぜ、そうなるのだと思いますか?

心が外に向かって開いているとき、
世界が語りかけてくるのを受け止められるとき、
それはどういう時なんでしょうか。

2008年04月13日

上手な席の譲り方

最近電車で、私が席をゆずろうとしても、
「大丈夫大丈夫、すぐ降りるから!」って遠慮する
おじいちゃんと、おばあちゃんに何名か遭遇しました。

そういわれると私の方も、
人前で目立ちたくない気持ちもあって
一瞬ひるんで「あ、そうですか?」とまた座ってしまいそうになるのですが、
「どんなに短い間でも座っている方が絶対に楽なはずなんだ」って
自分自身に言い聞かせて、こういいます。

「私もすぐに降りますから。一駅でもいいんです、どうぞどうぞ。」

片手を肩に軽く触れて、もう片方の手を空いた席に差し出して、
そこに座るように誘導しながら言うのです。

この、「一駅でもいいんです」が、結構効きます。

これを言うと必ず、それ以上遠慮なさらずに、
きれいな笑顔で「ありがとう」って言ってくれるのです。
本当にやさしい笑顔なんですよ。キラキラとして。

今まで勇気がなくて言い出せなかった方、
ぜひ、使ってみてください。
心がホカホカします。
自分もなんだか、キラキラした気持ちになります。

-------

母はまだ、電車で席を譲ってもらうような歳ではないのですが、
体のあちこちに不調は出てきていて、体力も衰えてきています。

だからたった2駅でも席に座っていたいと思うようです。
実際に二人でお出かけするとき、なるべく母に座らせています。

そういうことを、ある時一人で電車に乗りながら思い出しました。
すると、母と同じくらいの年齢の方が、しんどそうにつり革に
つかまって立っているのが目に飛び込んできました。
(意識の扉が開いた、とでもいうのでしょうか)

でもそれくらいの歳の方にあからさまに席をゆずるのは、
反対に傷つけてしまうかもしれないので
黙って立ち去って席を空けるという方法を採っているのですが
近くの若者に座られるということもあって、
今のところうまい方法は見つかっていません。

でも、その母の様子からの気づきは、
おばあちゃんおじいちゃんが目の前に、あるいは近くに
いたら席を絶対にゆずろうって決意するきっかけになったのでした。
(たまにタイミングを逸することもありますが・・・)

母の歳でさえ辛いのだから、
おじいちゃんやおばあちゃんが自分の背よりも高いつり革に腕を上げて、
揺られるのをバランスとりながら立っているのは
とても大変なことなんではないかと思えたのです。

私がもし、この方の娘だったら、息子だったら
そうイメージすると、体はひょいと動いてしまうもの。

みなさまも、ぜひ。
キラキラ笑顔がもれなく付いてきます。

2008年04月06日

人間は犬に食われるほど自由だ

『生きる意味を教えてください -命をめぐる対話』(田口ランディ)

藤原新也

大げさかもしれないけど、戦後の民主主義は人間尊重というか、人間がヒエラルキーのいちばん上というのはキリスト教の考え方なんだけど、それと民主主義が合体して、人間と言う存在を必要以上に高めたと思うんだよ。

(略)

そういった西洋から入ってきたものに、僕らは十分に感化されている。ということは、非常に重い自分を抱えてしまっている。それでインドに行ったら、急に人間が虫けらみたいに見えちゃうところがあって、最初はショックなんだけど、だんだん自分もそのへんでうごめいている虫と同じようなもんだ、みたいなことを思い始めると、荷が下りる。

犬が人間を食っているというのは、ある意味では陵辱的なシーンなんだけど、逆に言えば、犬から食われるほど自分は自由になれたと。

よりよく生きようと言う前向きな感じじゃなくて、重荷を降ろしてみてるんだな。生きてることの重荷を。

命が一番大切、という私の信念を根底から覆すようなことなのに
心の奥の奥で、まさにその通りだと頷く私もいて、
この矛盾は一体何なのか、まだわからないでいます。

でも福岡先生の『生物と無生物のあいだ』くらいに、
スウーっと肩の力が抜けました。

生きてるって、
ご飯を食べて寝て、息をしてっていう身体的な営み以外に
とても考えて意識して肩が凝ることなんだなぁ。

宇宙から見たら、大自然から見たら、
樹齢何百年の大木から見たら
私なんて人間は全く、虫けらと何一つ変わらないはずなのに。


呼吸が合う、について

男友達の一人が、今月結婚式を挙げる。

奥さんとなる女性と3人でご飯を食べる機会を得た。
私の前に二人が並んで、中華料理を小皿に分けて食べた。

二人とも超優秀で、べらぼうに頭がいい点は一緒なんだけど、
彼が言うように、なるほど確かに、好きな本の路線は違うようだ。

話もなんだか、それぞれが好きなタイミングで
好きなことを話しているといった感じで、
互いに話し始める冒頭の「でもさぁ」が一体どの部分への
「でも」になっているのかが不確かなまま、
ゆらりゆらり、方々実に開放的に話が進むのだ。

でも、一つだけパシッと一致することがあった。

「これ、おいしいね」と言うタイミングだ。

同じものを食べて、
同じように「おいしい」と感じているということを、
同じタイミングで二人で口にしていた。

その息の合い方が、すごい。
すごい、としか言えないんだけど、
とにかく合っているんだ。

「私たち噛み合ってないでしょ」とかいう
奥さんに私はすぐに、

「合ってるよ!おいしいって言うタイミングが一緒」っていったら、
「変わったこというね」って流されたけど、
呼吸が合うってこういうことなんだなって実感したんだよ。

全部一緒なんじゃないんだ。
それぞれの行きたい方にくるくると廻るけれど、
必ず同じタイミングでめぐり合う歯車みたいに、
本当にリズミカルに、呼吸が合っているのだ。

「どうして彼女をパートナーに選んだの?」という問いに、
彼が言った「一緒にいて低エントロピーでいける」という回答の背景には、
長く共有した時間と、その生活の中で合ってきた
息を吸ったり吐いたりする、「生きているリズム」の一致があるのだと思う。

27になって、友人の結婚ラッシュを経験して、
いろいろなカップルを見たけれど、
それぞれがインディペンデントでありつつも、
どこかでピタっと合うポイント(タイミング)があるカップルは意外と少ない。

自然体でいて、呼吸(タイミング)が合っているインディカップル。
「末永く、お幸せに」なんて言わずとも
息の長い愛を育む二人の、想像に容易いこと。

今月、お寺で開催するという一風変わった結婚式の2次会に参加してきます。